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ヴァイオレット・エッジコム・ジェンキンス(Violet Edgecombe Jenkins)

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イギリスの画家で児童書のイラストレーターでもあった、ヴァイオレット・エッジコム・ジェンキンス(Violet Edgecombe Jenkins, 1876-1943 ※生没年は “Artist Biographies” による)。 活動期間は1920年代までの約20年ほど─多く見積もっても20数年程度と短く、彼女についての情報も少ししかありません。 ネット上のプロフィールでは大抵 “旧姓 Shepherd”と書かれていますが、その名前で描かれた作品は見当たらず、彼女のものとして確認されているサインは“Violet Edgecombe Jenkins”または“V. E. Jenkins”です。 画家としては、ロイヤル・アカデミーやロイヤル・スコティッシュ・アカデミー、王立水彩画家協会、グラスゴー美術研究所(Royal Glasgow Institute of the Fine Arts)、リバプールのウォーカー美術館などで作品が展示された記録があり、それなりに活動していたようです。 イラストレーターとしては、それほど大きな仕事はなく、1冊の本に複数の作家やイラストレーターの作品が収録されているタイプの児童書が多かったよう。現在売買されている作品も、そういった本から直接切り取られたものか、その複製がほとんどです。 確かに一目でそれとわかるような個性には欠けるかもしれませんが、優しく爽やかなイラストは不思議と印象に残ります。誰もが知る画家とは言えなくても、百年ほども経った今でもこうして作品が残っていることがひとつの答えのように思います。 "What Can You See?" 'Blackie's Childrens' Annual' から "A Branch of Study" 1925年 1920年代

“ベルギーのミュシャ” アンリ・プリヴァ=リヴモン

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ベルギーの画家、デザイナーで、特にアールヌーヴォースタイルの広告ポスターで知られるアンリ・プリヴァ=リヴモン(Henri Privat-Livemont, 1861-1936)。 本名はアンリ・プリヴァ・アントワーヌ・テオドール・リヴモン(Henri Privat Antoine Théodore Livemont)で、作品のサインは主に “プリヴァ=リヴモン” または、“テオドール”の “T” を加えた “T・プリヴァ=リヴモン” と書かれています。 実は、彼の名前が“アンリ・プリヴァ=リヴモン”と表記されるようになったのは割と最近になってから。1991年のサザビーズのカタログにおいて、そう表記されたのが最初だったようです。その後、Wikipediaで彼の項目にアンリ表記が使われるようになり、ネットを中心にアンリ表記のほうが主流になっていったそう。この辺り、歌川広重と安藤広重みたいなもので(広重自身は絵師として“安藤”を名乗ったことはない)、だとしたらいずれまた表記が変わることもあるかもしれません。 アンリ・プリヴァ=リヴモンが生まれたのは、ブリュッセルの都市スカールベーク(スハールベーク)。 13歳で美術学校に入学したプリヴァ=リヴモンは、ブリュッセルのアカデミーを首席で卒業後、奨学金を得てパリに留学します。 1886年と1887年には、サロンに出展。 1883~1889年までは、パリ市庁舎の改修などを手がけたルメールらのスタジオで学びながら、装飾家としての経験も積みました。パリ市庁舎の改修にはプリヴァ=リヴモンも装飾家として参加しています。 パリで出会い、作品のモデルも務めた女性と1889年の夏に結婚。直後に故郷スカールベークに戻ると、画家、イラストレーター、装飾家として働き始め、1990年には自分のスタジオを設立しました。画家としては“象徴主義”に分類されているプリヴァ=リヴモンですが、この頃は肖像画を描くことも多かったようです。 また、フランスのニュース週刊誌"Le Monde Illustré(ル・モンド・イリュストレ)"などでも特派員という形で仕事をしていました。 ブリュッセルにある «Grande Maison de Blanc»  のセラミックパネル(1896~1897年) source 建築家ポール・サントノワ邸のステンドグラ

アン・ロチェスター(Anne Rochester)

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イギリスのイラストレーター、アン・ロチェスター(Anne Rochester, 1893-1959)。 1920~40年代を中心に、雑誌や児童書の挿絵、グリーティングカードなどを描いていました。 当時ものの絵本などのほかにも、イラストを使用した新たな商品が販売されているぐらいには今も人気の画家ですが、彼女自身の詳しい経歴はわかっていません。 唯一、経歴らしいものが書かれていたこちらのサイト “Artist Biographies” (20世紀に活躍したイギリスのアーティストを紹介している)によれば、出身地はノーフォーク州のグレート・ヤーマスで、旧姓がドリス・メアリー・ハーヴェイ(Doris Mary Harvey)となっていますが、このサイト以外で彼女の経歴に触れているものが無いため、これが正しい情報かどうかは確認することができません。ちなみに旧姓で発表された作品が無いか探してみましたが、こちらも見つけることができませんでした。 作風は、児童書やグリーティングカードではカラフルでキュートに、大人向けのものではお洒落にと、時代や媒体によって描きわけられています。

ドロシー・ヒルトン(Dorothy Hilton)の"オレンジとレモン"

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19世紀末から20世紀初頭にかけての美術史に、ほんのチラリと姿を現し消えていったドロシー・ヒルトン(Dorothy Hilton/Dorothy Frances Hilton)。 これは彼女がデザインし、今も商品化されている子ども部屋用の壁紙"Oranges and Lemons, Say the Bells of St. Clements"(1902年)です。 タイトル通り、マザーグースの“オレンジとレモン”を歌いながら遊ぶ子どもたちを題材にしており、元々はウィリアム・モリスなどの高級壁紙を生産していたジェフリー&カンパニー(Jeffrey and Company, 1836~1930年まで営業)で販売されていました。 日本で最初にこの作品にスポットが当たったのは、2018年に開催された『ウィリアム・モリスと英国の壁紙展』辺りでしょうか。その当時に比べて、このイラストを使用した商品の数は増えたと感じますが、その作者については相変わらず、ほとんど何も情報がありません。 確かなのは、バーミンガムを拠点としてアーツ・アンド・クラフツ運動に参加し、少なくとも1910年代前半までは、美術雑誌“The Studio”や展示会のカタログに名前が登場すること。 また、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館のサイトによれば、姉妹のアグネス・ヒルトンもデザイナーでイラストレーターでした。

イェニー・ニュストレム (Jenny Nystrom)

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スウェーデンの画家、イラストレーターのイェニー・ニュストレム(Jenny Nystrom, 1854.6.13 - 1946.1.17 ※生年月日については、6月15日説もあり)。 生まれたのはスウェーデン南東部のカルマルです。5人兄弟の3番目生まれたイェニーは、4人の兄弟と両親のほかに、母方の祖父母と曾祖母、更にふたりの叔母の大家族の中で幼少期を過ごしました。 この当時の思い出は美しく幸せなものとして記憶され、彼女自身も語っているように、それが作品にも反映されています。 教師をしていた父親の転勤にともない、8歳の時にヨーテボリに引っ越し。女性の職業的な自立を目的とする女子学校(Kjellbergska flickskolan)に入学します。 1865年には、その年に設立されたばかりのヴァランド芸術学校(ヴァランド ファインアートスクール/Konsthögskolan Valand ※現在はヨーテボリ大学の一部となっている)で学ぶようになり、1873年にはスウェーデン王立美術院に入学。8年間学んだ後、パリ留学のための奨学金を獲得し、アカデミー・コラロッシとアカデミー・ジュリアンでも学びました。1884年にはパリのサロンで作品が展示されています。 王立美術院入学後、自活するために雑誌などでイラストを描いていたイェニー。彼女が挿絵を描いた物語が、初めて本として出版されたのは1875年のことでした。 その前年イェニーは、以前新聞に掲載された作家ヴィクトル・リュードベリ(1828-1895)のクリスマス物語に挿絵を描き、それをリュードベリの元に持ち込みました。 リュードベリはそれを気に入り、大手出版社ボニエ社に出版を提案しますが、ボニエ社は無名の画家の起用には乗り気ではなく、渋々(おそらくは有名作家の顔を立てて)引き受けはしたものの本が出版されることはありませんでした。 結局、本は別の出版社から出版されるのですが、この短いクリスマス物語は以降スウェーデンのクリスマスの定番となり、イェニー・ニュストレムの名も一躍有名になりました。 イェニー・ニュストレムが挿絵を描いたヴィクトル・リュードベリの "Lille Viggs äventyr på julafton(Little Vigg's Christmas Eve adventure)" 1875年

エルザ・アイスグルーバー (Elsa Icegruber)

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ドイツの画家、イラストレーター、絵本作家のエルザ・アイスグルーバー(Elsa Eisgruber, 1887.3.22-1968.12.1)。 ベルリン・シャルロッテンブルクの美術工芸学校(現在のベルリン芸術大学の前身機関のひとつ)で学んだ後、ニュルンベルクとミュンヘンの美術アカデミーでも学びました。 アカデミーで彼女が専攻していたのは彫刻で、絵に関してはほとんど独学だったようです。 イラストや子どもの本を手がけるようになった経緯については詳しいことはわかっていません。が、30代後半には大手出版社であるGerhard Stalling(ゲルハルト・シュターリンク)社で仕事をしており、それなりに成功を収めていたことが窺えます。 1926年、新しく出版社を立ち上げた Herbert Stuffer (ヘルベルト・シュトゥファー, 1892-1966)に引き抜かれて、Gerhard Stallibgから移籍(ただし、その後Gerhard Stallibgからも再び本を出版しています)。 同年、Stuffer社から出版された"Sause Kreisel sause"は、Stuffer社が最初に出版した本でもあり、"Rosmarin und Thymian"(1928年)や"Von Baum und Blume, Kind und Tier"(1953年)などと共にエルザ・アイスグルーバーの代表作のひとつになっています。 "Sause Kreisel sause" 1926年 source

ウィニフレッド・ケイリー・ロビンソン(Winifred Cayley Robinson)

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画家フレデリック・ケイリー・ロビンソン(Frederic Cayley Robinson, 1862-1927)の妻としても知られる、イギリスの挿絵画家ウィニフレッド・ケイリー・ロビンソン(Winifred Cayley Robinson, 1861-1936)。 ロンドン近郊のサリー州で、株の仲買人ジョン・ランバート・ダリー(John Lambert Dalley)と妻メアリー(Mary)の間に生まれた彼女は、両親と弟二人、そして四人の使用人に囲まれて育ちました。 ケンジントンの美術学校で学んでいますが、それが王立美術学校なのか、ケンジントンにある別の美術学校なのか正確にはわかりませんでした。美術を学ぶようになった経緯や卒業後の経歴も不明。その署名で展示されたという“Winifred Dalley”の絵画作品も見つけることができませんでした。 彼女がフレデリック・ケイリー・ロビンソンと結婚したのは1898年の12月。以降、作品の署名も“Winifred Cayley Robinson”になったと考えられますが、現在確認できる作品が二つしかなく、その二つ以外に発表されたものがあるのかも不明です。 確認できる作品のうちの一つ L・V・ホジキン(Lucy Violet Hodgkin)著"Loveday Hambly and Her Guests"の口絵 AbeBooks.co.uk “Winifred Lucy Robinson”、“Mrs. Cayley Robinson”などと呼ばれることもありますが、一般には署名通り“Winifred Cayley Robinson”とされています。 代表作(といっても、ほかに作品はあまり無いわけですが)"The children's book of gardening"が出版されたのは1909年。 家族ぐるみの友人である作家のセシリー・シジウィック(Cecily Sidgwick, 1854-1934)が、エセル・ニーナ・ペイシェンス・ペインター(Mrs. Ethel Nina Patience Paynter, 18?? -1933)と共同で執筆した児童向けの園芸書の挿絵でした。 自分の娘バーバラとエセル・ペインターの娘ベティをモデルに描いたとされる12枚のカラープレートは今で

エセル・ヘイズのピーターラビット

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今まで、岡本帰一とミロ・ウィンターのものをとりあげてきた“無許可版”のピーターラビット。今回はアメリカの漫画家でイラストレーターのエセル・ヘイズ(Ethel Hays, 1892.3.13-1989.3.19)の絵本を。 ※当時の“無許可版”を取り巻く状況については こちらの記事 で説明しています。 エセル・ヘイズは元々、新聞連載の漫画を描いていた漫画家。1920~30年代にかけて、その分野で最も成功した女性の一人と言われています。 その後、結婚・出産を経て児童文学のイラストレーターとして活躍するようになりました(彼女の経歴については、またいずれ)。 ヘイズが描いたピーターラビットの絵本が出版されたのは1942年。前回のミロ・ウィンター同様、すでに確固たる地位を築いた上での仕事でした。 古書として流通しているものを見ると、表紙は少なくとも4~5種類はあるようです

佐伯春虹(SAEKI Shunkō)

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富山県出身の日本画家、佐伯春虹(SAEKI Shunkō, 1909-1942)。 将来を嘱望されながら33歳の若さで亡くなり(詳しい病名などは不明)、ほとんど忘れ去られていた彼の存在に光があたったのは、2006年のことでした。東京都港区の森美術館で開催され、その後ベルリンにも巡回した『東京-ベルリン/ベルリン-東京展』─そこに春虹の作品「茶苑」(1936年)が展示されたことがきっかけで、再び注目を集めるようになったのです。 日本画の中に近代的な題材を取り入れた作品は日本のモダニズムという文脈で海外でも紹介され、今や、このブログを含めネットの海のそこかしこで彼の作品を見かけるようになりました。が、早世であったことと、長らく無名のままだったことで、情報はあまり多くはありません。それどころか表に出ているもので確実に彼の作品だと言えるものも数えるほどしかない状態です。 その中で辛うじて見つけた情報は以下の通り。 富山県出身の日本画家、佐伯春虹(1909-1942)─伊東深水に師事し、十代でパリ万博に作品を出品するなど、その才能は高く評価されていましたが、33歳の若さで病没。活躍期間の短さが惜しまれます。 画像は20代後半の作品「茶苑」(1936年)。 pic.twitter.com/rz1O9eaenl — カトウ・ニニ。 (@ninikatu) April 13, 2024 ただ、その後もいろいろ確認してみたところ少し疑問点も出てきたので、その辺も含めて改めて。 1909(明治42)年、富山県で生まれたとされる佐伯春虹。上記ツイート(ポスト)の情報は富山県のホームページで確認できるのですが、そこでは“17歳で伊東深水に入門、昭和2年にパリ万博に出品”となっています。公のサイトでもあることから、それ以上確かめもせずに「入門してすぐに、師の推薦を受けるなどしてパリ万博にも出品したのだろう」とすんなり納得してしまいましたが、昭和2年(1927年)にパリ万博は行われていませんよね? 佐伯春虹の存命中にパリ万博が開催されたのは1925年と1937年。1925年には15~16歳です。絶対とは言えませんが、ここで出品したとは考えにくいでしょう。 一方、伊東深水の門下に入った時期について。伊東深水が佐伯春虹も在籍していたとされる画塾を開いたのが1927年の2月なので、満年齢の17歳で

レーシー・ヘルプス(Racey Helps)

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1940年代半ば~1970年にかけて活躍した、イギリスの児童文学作家でイラストレーターのレーシー・ヘルプス(Angus Clifford Racey Helps, 1913-1970)。 “Racey Helps”で検索すれば、それは沢山のポストカードや絵本が売買されており、いかに彼の作品が人気だったか(今も人気か)が分かります。 彼がそれらの仕事を始めたのは30代になってから。偶然の巡り合わせがきっかけでした。