メアリー・カサットのこどもたち(Children by Mary Cassatt)
右を向いているサラ (Sara Looking to the Right) 1901 |
アメリカ、ペンシルバニア州の裕福な家庭に生まれ育ったメアリー・カサット。
6歳で小学校に入学しましたが、幼い時から見聞を広めることが大切と考えていた両親の教育方針で、1951年からの数年は一家でヨーロッパ各地を移動しながら育ちました。
フランス語やドイツ語、音楽と共に、最初に絵を学んだのもこの頃。一家が帰国する1955年にはパリ万国博覧会が開催されており、帰国直前のメアリーも会場で有名画家たちの作品に触れ、影響を受けたと言われています。
画家を志すようになったメアリーは父親の反対を押し切り、わずか15歳でペンシルバニア美術アカデミーに入学。同校は当時、女子学生を受け入れる数少ない美術学校ではありましたが、それでも完全に平等というわけではなく、授業内容にも不満を募らせたメアリーは退学してパリへ渡ります。
が、女性の教育に関してはむしろフランスのほうが保守的でした。パリにはまだ女性が入学出来る美術学校は無く、メアリーはジャン=レオン・ジェロームやシャルル・シャプラン等の画家に直接師事したり、ルーブル美術館に通って巨匠の作品を模写するなどして学びました。ルーブルは当時、芸術家たちの情報交換や社交の場にもなっており、結果的にはこの時の経験は、広く色々な学びを得る機会だったと言えるかもしれません。この間に、サロンにも入選。パリで友だちになったエリザベス・ジェーン・ガードナーと共に、アメリカ人女性では初めてサロンに作品が展示されました。
1870年に晋仏戦争が始まると帰国を余儀なくされますが、その後再びヨーロッパへ。仕事のためにイタリアに滞在し、更にスペインを旅行した後、フランスに戻ります。
この時に出会ったのが、あのエドガー・ドガでした。
かねてよりサロンの在り方や古い画壇の体質に疑問を感じ、もっと自由な表現を求めていたメアリーは、ドガの誘いに応じ印象派の一員になります。ドガはメアリーを高く評価し、パステルやエッチングを教え、彼女の技術の向上に大いに貢献しました。
当時の批評家ギュスターヴ・ジェフロワは、彼女をベルト・モリゾ、マリー・ブラックモンと共に三大女流印象派画家と称しています。
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