レーシー・ヘルプス(Racey Helps)


1940年代半ば~1970年にかけて活躍した、イギリスの児童文学作家でイラストレーターのレーシー・ヘルプス(Angus Clifford Racey Helps, 1913-1970)。
“Racey Helps”で検索すれば、それは沢山のポストカードや絵本が売買されており、いかに彼の作品が人気だったか(今も人気か)が分かります。
彼がそれらの仕事を始めたのは30代になってから。偶然の巡り合わせがきっかけでした。


サマセット州の長閑な村に生まれたヘルプスは、地元の牧師館で初等教育を受けた後、ブリストルのカテドラルスクール(現在の«Bristol Cathedral Choir School»)で学びました。
卒業後は古書を扱う仕事に就いて、働きながらカレッジ(現在の«University of the West of England» 通称«UWE Bristol»)のコースを受講、そこで美術を学びました。ただ、現在は大学(University)として正式な芸術学部があるUWEですが、当時はもう少し実用的な技術を学ぶ所(College)だったこともあり、ヘルプスがこの時点で、どの程度本格的に絵を描く仕事を目指そうとしていたのかは分かりません。

物語づくりに関しては、1966年に受けたインタビューで彼自身が答えたところによれば、学生時代に「病気のいとこのために書いた物語が原点」とのこと(この辺り、ビアトリクス・ポターのピーターラビット誕生のエピソードを思い起こさせますね)。
自分の才能に気づいた彼は、その後地元の新聞に子ども向けの絵とお話を書(描)くようになったと語っています。

1966年のインタビュー
(英語力にはまったく自信が無いので、本当にそう言っているかどうか各自確認してください 笑)

とはいえ、絵にしても文章にしても、30代で一躍有名になるまでは特に目立った経歴はなく、それ以前の具体的な仕事も残ってはいないようです。
実際、初めて彼の絵本が出版された頃の彼の肩書きは「美容院の経営者」でした。

そんな彼に転機が訪れたのは第二次世界大戦中のこと。

1936年に結婚したヘルプスは、翌年生まれた娘アンを寝かしつける時に、よくお話を語って聞かせていたといいます。
しかし、やがて戦争が始まると、アンは親元を離れて疎開することを余儀なくされました。
娘の淋しさを慰めるため、ヘルプスは今まで通り物語を作り挿絵も添えて、それを疎開先に送り続けました。
一方、街で暮らすヘルプス夫妻は美容院を経営する傍ら、当時イギリスに駐留していたアメリカ軍兵士の世話もしていました。←ちょっと本題から逸れますが、この“世話”をしていたというくだり。Wikipedia等では“host”という言葉が使われていますが、それはある種ボランティアとしてなのか、役目としてなのか、或いは商売としてなのか。少し曖昧な感じがしたので当時の民間の受け入れ態勢等についても少し調べてみたのですが、結局ヘルプス家の場合がどうだったのかは決めかねました。が、ともかく当時のヘルプス家には、平時とは違い様々な人たちが出入りしていたということです。
その中に出版社の人間がいて、偶々、ヘルプスがアンのために作った手書きの小冊子を見たことが絵本の出版につながり、それは彼の人生を大きく変えました。

ロンドンの出版社コリンズ(本拠地はグラスゴー)から最初の絵本が出版されたのが1946年。以降、30冊近い(別の情報では40冊超とも)絵本のほか、ポストカードやジグソーパズル、プレイングカードなどが次々と発売されました。プレイングカードの一部は70年以上経った今でもあまり変わらないデザインで販売され続けています。

1946年に出版された“Footprints in the Snow”
絵本は当初、コリンズ社から出版されましたが、1960年代に入ってからはカード類も含めて主にメディチ・ソサイエティが出版するようになりました
ねずみのバーナビーを主役にした一連の絵本は、コリンズ時代の人気シリーズ

メディチ・ソサイエティ版の絵本

プレイングカード

ジグソーパズル

また絵本の多くは当時アメリカでも出版され、ヘルプスはアメリカの音楽家で作家でもあったヘレン・ウィングが書いた児童書の挿絵も描いています。
日本では1980年代後半に数冊の絵本が邦訳されて出版されました。1980年代といえば、日本でも既にポピュラーになっていたピーターラビットのグッズ展開などが盛んに行われ、ジル・バークレムの“のばらの村のものがたり(Brambly Hedge)”のシリーズが紹介されてヒットした時期とも重なります。ヘルプスの絵本もその流れで邦訳されたのではないかと思われます。

1987年にセーラー出版(現・らんか社)から出版された邦訳絵本

その人生のほとんどをサマセット州で過ごしたレーシー・ヘルプスでしたが、1962年には妻アイリーン、娘アン、アンの後に生まれた息子ジュリアンと共にデボン州に移住。
美しい自然に囲まれた環境で創作活動を続けましたが、1970年に自宅で心臓発作により亡くなりました。57歳でした。



















壁の絵に注目
ピーターラビットのお話では、お父さんがパイにされていましたが、こちらではどうやら、お祖父ちゃんがパイになっていたもよう…













レーシー・ヘルプスのイラストを更に見るには



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