Thelma Gooch(テルマ・グーチ)
アメリカのイラストレーター、テルマ・グーチ(Thelma Gooch,1895.12.30-1973.1.18)。
オハイオ州で生まれた彼女は、両親と兄の4人家族でした。
ハイスクールを卒業する頃には美術関係の仕事に就くことを考えていたというテルマ・グーチ。最初の転機は、まさにその頃、父親の病気治療のために一家でニューヨークに移り住んだことでした。
テルマの父は腎臓病から、当時で言う神経衰弱を患っており、地元オハイオの主治医からニューヨークにある病院での治療をすすめられたのです。
新しい主治医になったドルド医師には息子がふたりおり、兄のダグラスは後にパルプマガジン(大衆雑誌)の作家兼編集者、弟のエリオットはパルプマガジンのイラストレーターになっています。
テルマはハイスクールを卒業した1913年の秋、エリオットと同じニューヨークの学校に入学し、そこで美術を学びました。そこでどのような学生生活を送っていたのか、在学中の活動についての記録などは確認できませんが、ともかくテルマは1918年にはイラストレーターとしての仕事を始めていたようです。
家族に関しては父ロバートは1914年に病死、その3年後には結婚により兄エベレットも家を出て他州に移住しています。
仕事は順調だったようで、1930年頃までには子どもや若い読者向けの本を中心に挿絵画家としての地位を確立し、それにつれて暮らし向きも豊かになっていきました。
1922年
同じくエマ・ゲルダーズ・スターン 著「All About Peter Pan」の挿絵
1924年
ローラ・リー・ホープ(Laura Lee Hope, アメリカの作家Elizabeth M. Duffieldの別名義)の「The Blythe Girls」シリーズのカバー絵。テルマ・グーチは、シリーズ全12冊の表紙を手掛けました。
1925~1932年
同じローラ・リー・ホープの「The Bobbsey Twins and Their Schoolmates」カバー
1929年
エクトール・アンリ・マロ 著「家なき子」カバー絵 1930年
テルマ・グーチに再び転機が訪れたのは、1930年代に入って数年が過ぎた頃。
彼女は突然、パルプマガジンと総称される安価な大衆誌のイラストを描くようになりました。どういう経緯でその仕事を始めたのかについて詳しいことはわかっていませんが、おそらくは大恐慌もきっかけのひとつだったのではないでしょうか。
1929年から30年代後半まで続いた世界的な大恐慌。テルマが主な仕事としていた、子ども向けの本の出版にも少なからず影響があったと思われます。パルプマガジンの原稿料は児童書に比べると格段に安いものの、手っ取り早く収入を得るのには向いていました。
また、テルマがその仕事を始めるにあたって直接的な接触があったという証拠はありませんが、前述のドルド医師の息子たちの存在も関係しているかもしれません。彼らはテルマの父親が治療を受けていた病院の敷地内に住んでいたので、同窓の次男エリオットだけでなく、兄ダグラスとも顔見知りだった可能性があります。
雑誌「All Story Love」に掲載されたイラスト
1936年
パルプマガジンでの仕事は、殆どがこのようなモノクロのイラストで、テルマはこれを数百枚は描いたといいます。
PULP ARTISTS
ロマンス小説などを中心にした女性向けの雑誌「Love Story」のカバー
1939年
テルマは他の多くの作家や画家もそうであったように、パルプマガジンでは匿名か偽名で描いていました。特に彼女の場合は児童書の挿絵画家だったので、パルプマガジンのイメージが付くことは正直避けたかったのかもしれません。
しかし表紙となるとまた別ということなのでしょうか。この「Love Story」誌1939年3月号を含む2枚のカバーイラストのみ本名“Gooch”のサインを入れています。
ちなみにこの頃、母フランシスは兄家族と暮らす為にペンシルバニア州へ移住。テルマは44歳にして初めての一人暮らしを開始しました。
児童書の仕事とも並行しながら、パルプマガジンの仕事は1950年代初頭までは続けていたようです。
ペーパーバック絵本「三匹のこぶた」
1937年
「The Story of Little Red Riding Hood」
1941年
テルマ・グーチ後期の代表作「The Thelma Gooch ABC」
1941年
この年、母フランシス死去。
ABC Bookの改訂版「New Alphabet Book」
1950年
「Happy Mother Goose Rhymes」
1949年
1920~30年代に全盛期だったと言われるパルプマガジンは、第二次世界大戦中の紙不足や戦後の娯楽の多様化など、様々な要素により徐々に衰退。1950年代には既に多くの雑誌が無くなっていました。
子ども向けの出版物も同様で、本の形態や仕事のやり方なども変化するなか今までと同じように続けることは難しくなり、年齢的にも60代半ばになっていたテルマは引退を決めます。
未婚で子どももいなかった彼女は、兄とその家族たちが当時住んでいたアリゾナ州に移住。そこで余生を送りました。
収入を得るために始め、本人は半ば隠したがっていたようにも見える大衆誌での仕事。ですが今ではテルマ・グーチの名は、男性中心の業界にあって“パルプマガジン”という文化の隆盛の一翼を担った、才能ある女性たちのひとりとして記憶されています。
参考文献:Field Guide to Wild American PULP ARTISTS by David Saunders
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