Estella Canziani(エステラ・カンジアニ)


イギリスの画家で、紀行作家、民俗学者でもあったエステラ・カンジアニ(Estella Canziani, 1887.1.12-1964.8.23)。※本名はエステラ・ルイーザ・ミカエラ・カンジアニ(Estella Louisa Michaela Canziani)
“カンジアニ”と表記されますが、父はイタリア人だったことから、本来は“カンツィアーニ”かもしれません。
母親のルイーザ・スター(Louisa Starr, 後にLouisa Canziani, 1845-1909)も画家で、ジョージ・フレデリック・ワッツやジョン・エヴァレット・ミレイ、ウォルター・クレイン等とも親交があり、エステラは幼い頃から芸術的に恵まれた環境で育ちました。
そのため才能が見いだされたのも早く、13歳の時には既に注目される存在だったようです。

幼い頃のエステラ・カンジアニ(右から2番目)
祖母と両親、ナニーと共に
母ルイーザが描いたエステラと父(ルイーザの夫)エンリコ
母ルイーザ・スター・カンジアニの作品“Buttercups” 1893年

最初は私学の学校で、その後ロイヤルアカデミーで学び、フランスやイタリアにも作品を出展。エステラは画家として活躍するようになります。

“Beating the bounds, Ascension day, University College, Oxford”
invaluable
“Pearlies harvest festival”


◆“The Piper of Dreams”

エステラ・カンジアニの作品の中で最も有名な“The Piper of Dreams”─1914年のイースターに描き始められたこの水彩画は、翌1915年に王立アカデミーで展示されると大きな話題を呼び、複製が飛ぶように売れたと言います。
背景にあったのは第一次世界大戦。
日本人のイメージでは戦時に妖精画というのはピンと来ませんが、当時のイギリスの母親たちは、こぞってこの絵のコピーを戦地の息子たちに送り自宅にも飾ったと言われており、一種のお守りのような意味合いもあったのかもしれません。
しかし、この絵の構想に着手し始めた時期から見て、エステラ自身は作品のこのような受けとめられ方は意図していなかったと考えられています。

またこの作品については、今日に至るまであまりにも様々な複製画が出回り過ぎたためか、本来の色合いがどのようなものか今ひとつわかりません。参考までに以下にあとふたつほどあげておきます。
ポスターや絵葉書などの現行品は、比較的明るい色調のものが多いようです
妖精の存在がだいぶん強調された印刷になっていますが、それにより何処に描かれているかが、わかりやすくなってはいます

◆イラストレーション

エステラ・カンジアニは、イラストレーターとしても活躍していました。
代表的な仕事のひとつが、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の詩集“Songs of Childhood”の挿絵。

“Songs of Childhood” 1923年

鮮やかな色使いの中にも、時折のぞく妖しさと仄暗さ。
イラストレーション・絵画ともに、殊に妖精や天使を描く時の、エステラ・カンジアニの作品の魅力です。

“The Enchanted Basin”

“Good Morning”

“Protective angel entertaines a toddler while the mother is sleeping” または “The Fairy of Childhood” 1919

ポストカード
Stamps-Auction.com

◆紀行文と民俗学

生涯で3冊の紀行文を出版しているエステラ・カンジアニ。
ヨーロッパ中を旅行し、特に父のルーツであるイタリアを何度も訪れるうちに、より深くその土地の文化に興味を持つようになります。
その頃、各地で急速に失われつつあった伝統的な文化を記録し、収集し、それは作品にも反映されました。

“Repentance, Pragelato, Piedmont” 1907-1910
イタリア北西部の民族衣装を着た親子

“The Wedding Cap, Savoy” 1910年頃
フランス南東部の結婚式の冠

“Costume for Mourning, Saint Colomban, Savoy”
フランス南東部の喪服 1909

エステラ・カンジアニのコレクション(フランス南東部の装身具:ベルトやエプロンを留めるクリップや帯飾り)
Via Pinterest

中央イタリアの四旬節(カトリックでの復活祭前の期間)用の人形や馬具など
Arthur

◆3 Palace Green

そして、エステラ・カンジアニの人生を考える上で欠かすことが出来ないのが「家」。
彼女はケンジントン宮殿の敷地内、パレス・グリーンと呼ばれるエリアにある家“3 Palace Green”で生まれ、度々旅行(民俗学のフィードワークでもありました)に出るほかは、一生をその家で暮らしました。
室内装飾の仕事もしていた彼女。両親が購入し、幼い頃の幸福な思い出の詰まった自身の家にも深い思い入れがあったのでしょう。
3 Palace Greenは、作品の題材としても頻繁にとりあげられています。


様々な記事を読むと、最晩年においての彼女の家は少々混沌とした様相を呈していたらしいことも窺えます。
が、思い出と自分のお気に入りの物に埋もれた晩年は、私たちには森茉莉なども彷彿とさせ、むしろ物語に相応しい結びだったのではないか、とも感じるのでした。

ケンジントン・ガーデンズの夕暮れ

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